エピソード(1)

オランダで造られた開陽丸 オランダのドルトレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船所は開陽丸の船体を作りました。大砲はドイツのクルップという製鋼会社で作りました。この大砲は性能がずば抜けていて世界中の戦争をしている国はこのクルップ砲を求めました。この大砲を積んだ開陽丸は当時の世界でも最新鋭の軍艦でした。

開陽丸の断面図

エピソード(2)

日本への長旅 オランダで完成した開陽丸は1866年日本に向け出航しました。ディノー艦長以下109人の乗組員と日本人の留学生ら9人が日本をめざしました。大洋を南下、ブラジルに立ち寄りアフリカの南を越えインド洋から北にむかい翌年1867年に横浜港に到着したのです。それは、長く厳しい航海でした。

開陽丸回航

  • 12月1日
    フリッシッンゲンを出航(午前8時)開陽丸の石版画
  • 12月18日
    雪を伴う激しい嵐
  • 12月26日
    イギリス船クランスマン号に遭い話を交わす
  • 12月31日
    大晦日のため休日とする(30日目)
  • 1月22日
    リオデジャネイロに到着 石炭305トンを積む(52日目)2月1日 出港
  • 2月15日
    激しい嵐のため帆を降ろす
  • 2月26日
    この日現在、病人は11人にのぼる(87日目)
  • 3月1日
    海水からエンジン用の真水をつくる3月1日 海水からエンジン用の真水をつくる
  • 3月22日
    無風のためアンボイナまでエンジンで航行(1日平均72キロ) この頃、船内での気温は50度をこす(111日目)
  • 3月29日
    アンボイナ(アンボン)到着 石炭299トンを積む(118日目)4月10日 アンボイナ出港
  • 4月29日
    伊豆七島の島の利島を見る 午前10時、日本本土と富士山を確認する(149日目)
  • 4月30日
    横浜到着(150日目)

 各称  寸法 重量 施条 使用弾種  性能
30ポンド短力ノン砲 全長2m42㎝口径16㎝ 1686㎏  ナシ 榴弾(球形弾)実弾  装薬4kg、射角11度で2,700m以上
16センチ施条長カノン砲 全長3m35㎝口径15.8㎝ 2855㎏ アリ 榴弾(尖頭弾)実弾(尖頭弾)散弾(ブドウ弾) 装薬2.5kg、射角4.5度で3,980m
1ポンド自在砲 全長1m5㎝口径5.3㎝ 85㎏ ナシ  実弾、榴散弾  
9インチダルグレン砲 全長3m33㎝口径22.5㎝ 4200㎏ ナシ 榴弾(球形弾) 装薬4kg、射角4度で1,400m
12ポンドカノン砲 全長2m13㎝口径11.6㎝ アリ 榴弾、榴散弾 装薬1.2kg、射角32.5度で4,700m


エピソード(3)

開陽丸が日本に到着して徳川幕府旗艦として働いて間もなく日本の政治は大きく変わり、4ヶ月後に大政奉還、王政復古の大号令が出ます。これにより、徳川幕府がおさえていた政治の実権が完全に天皇率いる新政府のものとなり、開陽丸などの軍艦も新政府に引き渡されました。しかし、旧幕府の家臣・榎本釜次郎(武揚)らは船を奪い品川沖から蝦夷地に向かったのです。


品川沖を航行する艦隊(函館市立中央図書館蔵)


洋式海軍学を修学するため26歳でオランダに留学し、5年後の慶応3年(1867年)、日本に回航される新造の開陽丸とともに帰国。幕府の軍艦奉行となり、戊辰戦争では開陽丸に乗り込み、幕府艦隊を率いて北海道へ。開陽丸座礁沈没後、五稜郭にたてこもるが官軍に降伏。釈放後、政治家としての晩年を過ごす。明治41年没。

    
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① 横浜港で徳川政府に引き渡し 

② 天保山沖に出動

③ 兵庫沖海戦 

④ 阿波沖海戦 

⑤ 徳川慶喜、大阪脱出 

⑥ 品川沖入港 

⑦ 開陽丸他7隻、品川を脱出 

⑧ 暴風のため2艦を失う 

⑨ 修理のため仙台入港 

⑩ 宮古で薪を積み込む 

⑪ 鷲ノ木上陸、函館に向けて進撃開始 

⑫ 函館入港 

⑬ 江差砲撃 座礁、沈没

エピソード(4)

海に沈んだ開陽丸 榎本軍は函館に新政府を樹立したあと、さらに福山城、江差の攻撃にうつりました。この攻撃の援護を開陽丸が担当し江差の攻撃を開始しました。江差は全く抵抗しなかったので、陸をまわってくる自軍を待つことにしました。ところが猛吹雪となりイカリも船も押し流され暗礁に乗り上げてしまいました。そして自由を失い約10日後に海の底に沈没してしまったのです。蝦夷地に新政府を樹立した榎本軍の追討令を発令した政府は軍艦の援護によって榎本軍を五稜郭に追いつめ、榎本軍が降伏し函館戦争は終わったのです。

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