どんな運命だったのか

開陽丸は1866年10月オランダでつくられ、1867年3月日本に到着しました。それからその時の政府・徳川幕府の旗艦として働くのですが、徳川幕府が力を失い天皇が政治の実権を握るようになり、徳川の家臣たちは開陽丸を奪い北海道へ逃亡します。その抵抗も長続きせず最後には開陽丸も江差で座礁・沈没したのです。

榎本武揚(海軍副総裁)

開陽丸年表

  • 安政2年(1855)
    (6月)オランダ国王より観光丸が寄贈され、第1次長崎海軍伝習所が開校。
  • 安政4年(1857)
    (4月)築地に海軍操練所が設けられ、長崎海軍伝驟習所の一期生が教師となる。(海軍兵学校の発端)(8月)幕府購入の咸臨丸がオランダから到着しオランダ海軍カッティンディケ、伝習所の教官団団長として来日。
  • 安政6年(1859)
    長崎海軍伝習所閉鎖。
  • 万延元年(1860)
    (1月)咸臨丸、日米修好通商条約批准交換のため浦賀を出港、サンフランシスコへ向かう。
  • 文久2年(1862)
    幕府、長崎駐在オランダ総領事を通じ、オランダ貿易会社に軍艦(開陽丸)を発注。(6月)軍艦の発注に伴い、オランダに15名の留学生を派遣する(翌月4月オランダ到着)
  • 文久3年(1863)
    (4月)オランダ貿易会社とヒップス造船所の間で軍艦(開陽丸)の造船契約が交わされる。
    (8月)起工式が行われる。 キール据え付け式が行われる。
  • 元治元年(1864)
    (9月)建造中の軍艦を、幕府の指示により「開陽丸」と命名する。
  • 慶応元年(1865)
    (9月)開陽丸進水。(10月)留学生のうち、西、津田が帰国。
  • 慶応2年(1866)
    (8月)開陽丸完成、造船所から貿易会社に引き渡される。(12月)海軍大尉ディノーの指揮で、開陽丸、榎本ら9名の留学生を乗せて、フリッシンゲンを 出港、日本に向かう。(赤松、林、伊東は留学期間を3年間延長し、オランダに残る)
  • 慶応3年(1867)
    (4月)開陽丸、横浜に到着。 榎本、軍艦役に任じられ、沢とともに開陽丸で乗艦。 大阪湾の警固にあたる。
  • 慶応4年(1868)
    (1月)徳川慶喜、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、開陽丸で大阪を脱出、品川に至る。(4月)榎本、開陽丸ほか7艦を奪って館山沖に脱走、勝安房(海舟)説得により品川帰還。 幕府、軍艦を新政府に引き渡し、改めて開陽丸ほか3艦の返還を受ける。(8月)榎本艦隊8隻、品川沖より脱走。(10月)仙台で旧幕府の敗残兵、土方歳三、大鳥圭介ら2,800名を収容。蝦夷地内浦湾の鷲 の木村(現森町)に到着、陸兵が上陸し、箱舘に向けて進撃を開始。(20日)(11月)榎本、開陽丸で箱舘に入港、五稜郭に入る。 江差占拠の陸兵援護のため、開陽丸江差沖に到着、砲撃(15日)同日夜半、暴風雪のため座礁、約10日後に沈没する。
  • 明治2年(1869)
    (3月)政府軍、蝦夷地に上陸。(5月)榎本軍五稜郭で降伏、箱舘戦争終了。

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