開陽丸は1866年10月オランダでつくられ、1867年3月日本に到着しました。それからその時の政府・徳川幕府の旗艦として働くのですが、徳川幕府が力を失い天皇が政治の実権を握るようになり、徳川の家臣たちは開陽丸を奪い北海道へ逃亡します。その抵抗も長続きせず最後には開陽丸も江差で座礁・沈没したのです。
当時の日本はこんなに大きな軍艦は作れませんでした。徳川幕府は外国の軍艦がたびたび日本のまわりに出没するようになり日本にも対抗できる軍艦が必要と考え、長年友好関係のあったオランダに注文し、ヒップス造船所という会社が作りました。
船型 シップ型3本マスト・補助エンジン付き 開陽丸排水量 2,590トン 最大長 72,80メートル (バウスピリットを含め、81.20メートル) 最大幅 13,04メートル 吃水深 5,70メートル(前部) 6,40メートル(後部) 帆面積 2097,8平方メートル 補助 400馬力蒸気機関1基(トランク・スチーム エンジン) 速力 10ノット(汽走時) 標準装備 大砲26門(うち18門は16センチクルップ 砲) 後に9門が追加され35門になった。外に小型 ブロンズ・ホーウィツェル砲など付属砲8門 乗員数 350〜500人 設計者 J.W.L.ファンオールト(van Oordt) 造船所 ドルトレヒト市ヒップス・エン・ゾーネン造船 会社(C.Gips en Zonen) キール据付式 1863年(文久3)9月13日 進水式 1865年(慶応元)11月2日 貿易会社への引渡 1866年(慶応2)9月10日 幕府への引渡 1867年(慶応3)6月22日 |
![]() 開陽丸記念館 |
オランダで造られた開陽丸 オランダのドルトレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船所は開陽丸の船体を作りました。大砲はドイツのクルップという製鋼会社で作りました。この大砲は性能がずば抜けていて世界中の戦争をしている国はこのクルップ砲を求めました。この大砲を積んだ開陽丸は当時の世界でも最新鋭の軍艦でした。
開陽丸の縦断面図(開陽丸設計図45枚中の1枚)
建造中の開陽丸 開陽丸進水式の様子
完成した開陽丸 荒波を航海する開陽丸
日本への長旅 オランダで完成した開陽丸は1866年日本に向け出航しました。ディノー艦長以下109人の乗組員と日本人の留学生ら9人が日本をめざしました。大西洋を南下、ブラジルに立ち寄りアフリカの南を越えインド洋から北にむかい翌年1867年に横浜港に到着したのです。それは、長く厳しい航海でした。
(1866年12月1日〜1867年4月30日)
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開陽丸回航図
1ポンドダライアパス 16センチ施条長カノン砲
名 称 | 寸 法 | 重 量 | 施条 | 使用弾種 | 性 能 |
30ポンド カノン砲 |
全長2m42cm 口径16.0cm |
1,686kg | なし | 榴弾(球形弾)実弾 | 装薬4.0kg射角11.0度で2,700m以上 |
16サンチ クルップ砲 |
全長3m35cm 口径15.8cm |
2,855kg | あり | 榴弾(尖頭弾) 実弾(尖頭弾) 散弾(ブドウ弾) |
装薬2.5kg射角4.5度で3,980m |
1ポンド 自在砲 |
全長1m05cm 口径5.3cm |
85kg | なし | 実弾、榴散弾 | |
9インチ ダルグレン砲 | 全長3m33cm 口径22.5cm |
4,200kg | なし | 榴弾(球形弾) | 装薬4.0kg射角4.0度で1,400m |
12ポンド カノン砲 |
全長2m13cm 口径11.6cm | あり | 榴弾、榴散弾 | 装薬1.2kg射角32.5度で4,700m |
開陽丸が日本に到着して徳川幕府旗艦として働いて間もなく日本の政治は大きく変わり、4ヶ月後に大政奉還、王政復古の大号令が出ます。これにより、徳川幕府がおさえていた政治の実権が完全に天皇率いる新政府のものとなり、開陽丸などの軍艦も新政府に引き渡されました。しかし、旧幕府の家臣・榎本釜次郎(武揚)らは船を奪い品川沖から蝦夷地に向かったのです。
品川沖を航行する艦隊(函館市立中央図書館蔵)
榎本釜次郎(武揚) 鷲ノ木着船之図(函館市立中央図書館蔵)
洋式海軍学を修学するため26歳でオランダに留学し、5年後の慶応3年(1867年)、日本に回航される新造の開陽丸とともに帰国。幕府の軍艦奉行となり、戊辰戦争では開陽丸に乗り込み、幕府艦隊を率いて北海道へ。開陽丸座礁沈没後、五稜郭にたてこもるが官軍に降伏。釈放後、政治家としての晩年を過ごす。明治41年没。
海に沈んだ開陽丸 榎本軍は函館に新政府を樹立したあと、さらに福山城、江差の攻撃にうつりました。この攻撃の援護を開陽丸が担当し江差の攻撃を開始しました。江差は全く抵抗しなかったので、陸をまわってくる自軍を待つことにしました。ところが猛吹雪となりイカリも船も押し流され暗礁に乗り上げてしまいました。そして自由を失い約10日後に海の底に沈没してしまったのです。蝦夷地に新政府を樹立した榎本軍の追討令を発令した政府は軍艦の援護によって榎本軍を五稜郭に追いつめ、榎本軍が降伏し函館戦争は終わったのです。
福山城を攻撃する幕府艦隊 箱館海戦の図
(函館市立中央図書館蔵) (市立函館博物館蔵)
箱舘奉行所 開陽丸座礁を描いた図
(函館市立中央図書館蔵) (函館市立中央図書館蔵)
沈没以来明治7年頃までは多くの武器、弾薬、船具などが引き揚げられていました。その後も民間の引き揚げ業者などによって金属の回収などが行われていましたが途中で調査はうち切られていました。
開陽丸と共に沈んだ遺物は長い年月の中に消えてしまったのでしょうか。昭和49年文化庁の指導のもとで海底調査が行われました。この時、開陽丸の遺物が大量に発見されました。防波堤ができて海の流れが変わり海底の砂が運び去られ、再び姿を現したのではないかと考えられています。そして、引き揚げ作業が始まったのです。
海中遺跡の発掘の例がない日本だったので外国の資料をもとに引き揚げの方法や問題点を調べました。開陽丸発掘は専門家によるチームが中心になり引き揚げの方法、引き揚げてからの保存方法などいろいろなことを解決してからでないと、せっかく引き揚げた物も保存できないのです。
ーーーーーーーーーーーーーー 昭和49年度迄 44点 昭和50年度 400点 昭和51年度 1,800点 昭和52年度 16,000点 昭和53年度 7,565点 昭和54年度 2,972点 昭和55年度 522点 昭和56年度 ― 昭和57年度 2,123点 昭和58年度 1,375点 昭和59年度 104点 ーーーーーーーーーーーーーー 総 計 32,905点 |
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年度別出土点数
最初はたくさんの遺物がどのように散乱しているかをしっかりと記録しておかなければなりません。これをしないと引き揚げてから何がどこにあったかが分からなくなり、判定がしにくくなるのです。海底では浮力や水圧が動きの邪魔をして、陸上のように自由に動けないのです。それに、海底では手や足を動かすたびに砂が舞い上がり何も見えなくなってしまうのです。さらに、長い年月の間に錆びてくっついてしまった金属があり、これを一つ一つはずして引き揚げるため海底での作業が大変でした。そして、10年余りをかけて引き揚げられた遺物は3万点を超える数になったのです。
海水に長い間浸かっていた遺物は空気中に引き揚げられると海の中にある時より腐食が早くなります。海水の中の塩分が遺物にしみ込んでいるため塩分を抜く作業が最初に行われ、その後、それぞれの物質によって保存するまでの工程が違うのです。当時、東京国立文化財研究所の江本義理先生と江差高校の小林優幸先生と化学クラブの生徒たちが処理に当たったのです。
材質別出土遺物点数 | 金属製遺物の保存処理工程 |
種別 材 質 引揚点数 | |
金 属 鉄 - 5,879 銅・真鍮 - 17,392 鉛 - 3,546 錫 - 61 金・銀 - 48 金属複合 - 323 |
●遺物の引き揚げ ↓ ← 岩盤等付着物剥離 |
有機物 皮 - 574 繊維 - 952 木材 - 794 紙 - 1 骨 - 14 くぎ - 19 |
●脱 塩 ↓ ← 鉄 2%カセイソーダ1年(2ヶ月換水) ↓ ← 銅・真鍮 5%セスキ炭酸ソーダ6ヶ月(2ヶ月換水) ↓ ← 鉛・錫 2%セスキ炭酸ソーダ3ヶ月 |
陶器類 陶器 - 1,606 硝子 - 1,311 |
●脱アルカリ ↓ ← 水道水浸漬 ↓ ← 純水浸漬 |
その他 異種複合 - 351 石・石炭他 - 34 |
●脱水・乾燥 ↓ ← 熱風乾燥器 |
計 32,905 | ●クリーニング ↓ ← ハンマー・ブラシ・グラインダー |
●表面処理 ↓ ← 鉄 ・・・デンソーペースト ↓ ← 銅・真鍮 ・・・インクララック |
|
●収 蔵 |